こんにちは。文系女子SEのほりごたつです。
現在はSEとして働いている私ですが、
何年か前は文学部にいる文系の大学生でした。
私は文学部の中でも文学専攻ではなく「日本語学」の専攻で、
主に日本語の文法を研究していました。
というと
と驚かれますが(SEとして働いていると、特に文法嫌いな人に多く出会います。。)
日本語の文法は義務教育で習う以上に奥深くて面白い分野です。
今回はそんな日本語学の面白さを少しでも多くの人に伝えるべく、概要をお話しできればと思います。
日本語学は言語学のひとつ
というと、「じゃあそもそも言語学ってなんだよ!」とツッコまれそうです。
言語学とは
言語学とはその名のとおり、言語の学問です。
言語を対象とした科学的研究のこと。
ざっくり以下の6つの分野に分かれます。
向かって左が細かい単位、右がまとまった単位、
向かって上が耳からの情報、下が目からの情報、と考えるとしっくりくるかと思います。
そのため、「言語学」とひとくちにいっても、文法を研究していた人もいれば、
発音の体系だったり、文字体系だったりを研究している人もいます。
このような「言語」の研究について、日本語を対象にするのが「日本語学」です。
例えば、「音」でいうと以下のような話があります。
- 日本
- 日本橋
- 日本が
いずれも「にほん」という単語でありその意味も同じように捉えることができますが、音としては異なります。
「日本」にほん・・・・・・「ん」を言うときの口は閉じていません。舌の奥の方と喉の近くがくっついているかと思います。
「日本橋」にほんばし・・・(後続の「ば」につられて)口は閉じているかと思います。
「日本が」にほんが・・・・(後続の「が」につられて)口は閉じておらず、下が丸まってやや上にいった状態になっているかと思います。
このように、音が違うことを追究したり、
音が違うにも関わらず「語」としては同じものだととらえられることについて、
その概念を追究したりするのも日本語学です。
規範や審美の観点ではない
どうも「言語を研究していた」というと、
「じゃあ正しい日本語にうるさいんだ」などと解釈されがちですが、
言語学とは、正しさや美しさを決定するものではないからです。
正しい「日本語」や「英語」などという概念に、言語学的な意味はない。
近代言語学において、このような調停者の役目を言語学、および言語学者が果たすことはない出典:「岩波講座言語の科学1 言語の科学入門」(岩波書店)
規範意識や審美的観点が根っこにある学問ではなく、
規則なども全部ひっくるめて「とらえなおす」ということをやろうよ、というのが言語学であり、
日本語学はその中の1つであるといえます。
義務教育で習う「国語の文法」は、一つのとらえ方にすぎない
「それだけで文節をつくるもののうち、活用するものが用言。用言のうち、終止形が「ウ段」ものが動詞・・・・・」
文法というと、こんなことをやったことを思い出すのではないでしょうか。
この「品詞分解」は中学生が国語の授業の中でも苦痛を感じるところかと思います。
現在「品詞分解」として教科書に掲載されているものは橋本進吉という人の論によるものです。
義務教育ではこれしか習わないので、これが理解できないと相当苦痛になってしまうと思いますが、
本来学問としての日本語学は「とらえなおす」ことが目的なので、この論に従うことがすべてではありません。
とか
それだけで主語になるかとか、分ける観点がいくつもあるんだ・・・
とかとか。
わかりにくいな、なんだかしっくりこないな、
と感じたのであればそれは「とらえなおし」のきっかけをつかんだとも言えます。
(あいにく私はあまりそういうことを感じずに生きてきてしまったので、
ある意味「向いていない」人間だったのかもしれません。笑)
日本語学ではこんな形で研究する
それでは次に、実際にこんなことをしていた、というのをご紹介します。
以下は私が所属していたゼミで実際に議論が行われていた用語で、
言語学上で「述語」を語るときに欠かせない用語になります。
- ほりごたつさんがプログラミングする。
例えばこんな文があったとして、「ほりごたつさんが」の部分が「主語」、「プログラミングする」の部分が「述語」です。
この「述語」ですが、学校文法だと以下のようになるかと思います。
1.それだけで意味をもつもの
(1)終止形が「ウ段」で終わるもの ・・・ 動詞 (ex)走る、書く、投げる
(2)終止形が「い」で終わるもの・・・・・ 形容詞 (ex)美しい、素晴らしい
(3)終止形が「だ」で終わるもの・・・・・ 形容動詞 (ex)きれいだ、愉快だ2.それだけでは意味を持たないもの
(1)活用するもの ・・・・・・・・・・・ 助動詞
(2)活用しないもの ・・・・・・・・・・ 助詞
たとえば「きれいだった」という述語があった場合、これは「きれいだ(形容詞)+た(過去の助詞)」という風に解釈する。
このようにより細かい単位に分けて理解していくのが学校文法で習う述語です。
では一方で、言語学上は述語をどのように捉えるかというと、以下の通りです。
1.モダリティ(法性)
2.テンス(相)
3.アスペクト(時制)
4.ヴォイス(態)
モダリティ(法性)
主に気持ちを表すカテゴリです。よく取り上げられる例として「ようだ」と「らしい」が挙げられます。
- ほりごたつさんは風邪のようだね
- ほりごたつさんは風邪らしいね
どちらも確信をもってはいない、という「話し手の気持ち」が現れています。
推測を含んでいるという意味で、「ようだ」と「らしい」は同じように使えると言えますが、
例えば次のような例だとどうでしょうか。
- (医者が聴診しながら)風邪のようだね。
- (医者が聴診しながら)風邪らしいね。
上の例文の方は、実際に医者にかかって言われたこともあるかと思います。
ですが、下の例文の方は実際にお医者さんに言われたら違和感があると思います。
って思ってしまうかも。。
ではこの違和感はなんなのか。「ようだ」と「らしい」の違いは何なのか。
このように例文を取り上げて分析していきます。
アスペクト(相)/テンス(時制)
アスペクト(相)は主に局面を表すカテゴリです。
以下の文は「~を」までは同じですが、それぞれ局面が違います。
- ほりごたつさんがブログを書き始める
- ほりごたつさんがブログを書きだす
- ほりごたつさんがブログを書きかける
- ほりごたつさんがブログを書き続ける
- ほりごたつさんがブログを書き終える
「開始」「継続」「完了」など、いずれも「書く」という動作に対してその局面が感じられると思います。
上記の例だと「始める」と「だす」はほぼ同じように感じますが、次のような例だとどうでしょうか。
- ほりごたつさんがブログを書き始めて1週間たつ
- ほりごたつさんがブログを書きだして1週間たつ
「始める」は行動だけでなく、慣習として始めることまでの意味を含むのに対して
「だす」はその行動を(しかも突発的に)開始した瞬間を意味することに気づくと思います。
このように、同じような局面を表していてもやや範囲が違ったりする語どうしについて
より深く追究していきます。
局面を表す「アスペクト」に対して、時間軸を表すカテゴリが「テンス」です。
先ほどの例で挙げていた「終える」について、過去を表す「た」をつけてみます。
- ほりごたつさんがブログを書き終える
- ほりごたつさんがブログを書き終えた
過去を表す「た」がついたものと、そうでないものを比べてみると、
「書き終える」は実際まだ書き終えてはいないけれど書き終えそう、な状態を表しており、
「書き終えた」になるとようやく「完成」した状態を表しているように感じられると思います。
では、次のような例だとどうでしょうか。
- 容疑者は3か月前にこの旅館に立ち寄っている
- 容疑者は3か月前にこの旅館に立ち寄っていた
これは局面をあらわすアスペクト「ている」について、「る」と「た」をつけて比較してみたものです。
ですが、
上の文はどこか「すでに把握している事実」のような印象を受けるのに対して
下の文はどこか「新たに発覚した事実」のような印象を受けるのではないでしょうか。
このように、アスペクトとテンスを合わせて使った場合の局面や時間軸は接続する動詞によっても変わってきます。
では、それぞれどのように許され、どうなると使えないのか。
そこからそれぞれの語の表す範囲、詳細な意味を分析していきます。
ヴォイス(態)
主に主語となる人物の状態を表すカテゴリです。
「自動詞」「他動詞」「受動」「能動」など英語を学ぶにあたっては欠かせない概念かと思いますが、
このような「どうした」「どうされた」を表すものになります。
例えば次の例でいうと、「蹴り飛ばす」は使えますが、「売れ飛ばす」はしっくりこないですよね。
- 蹴り飛ばす
- 売れ飛ばす
どちらも同じく「動詞+動詞」の複合語なのに、どうして許される組み合わせと許されない組み合わせがあるのか。
この謎を解くカギが「自動詞」「他動詞」の分類にあります。
蹴り飛ばす・・・蹴る(他動詞)+飛ばす(他動詞)
であり、どちらも「相手」に対して動作する動詞です。これに対し、
売れ飛ばす・・・売れる(自動詞)+飛ばす(他動詞)
と、「売れる」はその文の主語が「どうなる」ことを表す自動詞であるのに対して、「飛ばす」が他動詞となります。
こういった原則を「他動性調和の原則」と呼びます。
「自動詞」「他動詞」で分けた際に、同じ種類の動詞であれば組み合わせ可能
という原則のこと
このように語と語の組み合わせから原則を発見したり、
原則に反する例を挙げてその理由を解明したりするのも日本語学のおもしろさです。
まとめ:まだまだ日本語には知らない世界がある
ここまで読んで、
「たしかに!」と新たに気づいたり、
「ほんとだ?なんでだろ?」と疑問に思ったりした人がいてくれたらうれしいです。
ずっと日本語を使って生きている私たちでも、まだまだ日本語には知らない世界が存在しています。
気づかぬうちに使い分けていたり、気づかぬうちに発音し分けていたり。
その世界をもっと知ること、
そして今ある枠組みだけでなく新たなとらえ方はできないだろうかと模索することが
日本語学の醍醐味です。
それでは、今回は日本語学についてその概要をお話ししました。
また次回お会いしましょう!
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